ポジティブなユートピア

「現代の若者には、ポジティブなユートピアが足りないのです」

ミヒャエル・エンデ他の対談集『オリーブの森で語り合う』(岩波書店)でエンデが語る言葉です。

 

ずっと色々なことをモヤモヤ悶々考えてきました。漠然と引きこもりたくて、行動力がないのがなさけなくて、でも行動に必要なだけの知識が足りないのだと言い訳して、そのくせその知識を得るために行動しようとはしてなくて。

最近『オリーブの森で語り合う』を読み返して、このエンデの「ポジティブなユートピアが足りない」状態なのかなぁと思い至ったのです。

 

今大学生なのですが、「将来の夢」がありません、正直。そろそろ卒論のことや就活を考える(というか動き始める)時期なのですが。しいて言うなら、無難にストレスの少ない、安定した収入を得られる仕事をしつつ、趣味を充実させたい。職種はストレスが少なければぶっちゃけなんでもいいですし、責任が重い仕事はしたくありません。自己実現は趣味のほうでやればいいので、仕事を人生の主軸にしたくないです。

 

でも、元々こんな考え方だったわけではないのです。私は小学生のころ考古学者になってピラミッドを掘りたかった。そのためにはエジプトに行かなきゃ、英語が必要だ!といって勉強するような子供でした。他にも、ピアノを習っていてピアニストは無理でもピアノ調律師になりたかった。そのためには音大に行ったり専門学校に行ったりする必要があるんだな、と調べて、いろいろな学校も調べてたくらいです。図書館司書にもなりたかった。資格をとるためのいろいろを調べて、求人情報なんてのも見てた。もっと言えば、お恥ずかしながら小説家にもなりたかったんです。実は一度だけ公募にも出しました。歯牙にもかけない結果でしたし今となってはもう当時の原稿思い出したくもないのですが……。

 

しかし、今となってはすべてあきらめてしまってここにいます。上記の夢とはかすりもしない勉強をして、今している勉強とも全然関係ない職業に就くことを考えています。

なぜ全部あきらめてしまったのか。それがまさしく「ポジティブなユートピアが足りない」でした。

 

考古学者になりたかった私は、外国の治安の悪さに恐れをなしました。ピアノ調律師になりたかった私は、あまりにも音痴な自分にあきれました。図書館司書になりたかった私は、安定した求人をつかまえられる気がしなくなってしり込みしました。小説家になりたかった私は、趣味で好き勝手書いてるほうがいいやと自分に言い聞かせました。

ほとんど挑戦する前にあきらめたのです。誰かから何か言われたからとかではなく、勝手に自分でいろいろ調べて、勝手に一人で悩んで、一人であきらめました。「私自身がどうありたいか、その時世界がどうであってほしいのか」というユートピアを持たなかった私は、至るべき場所を定められずに物のあふれる迷宮に放り出された気分でした。

 

幸運なことだというべきでしょうか、我が家は平均かそれより少し上(全国的な平均でみればおそらく平均程度なのですが、ド田舎でしたので地域的な平均だと少し上だと思います)の財政状況でしたし、父は大卒、母も一度は大学受験をしたことがある程度には教育に関して前向きな人々でした。おかげで、私は幼少期からいろいろな習い事をさせてもらっていました。英会話、ピアノ、習字、(ほんの短期間の)水泳。部活動も吹奏楽部をだいぶ長くやりました。ゲームや漫画といったオタク趣味への理解は少々堅いものがありましたが、本当に恵まれた、様々な選択肢を目の前に広げてくれていた環境なのだと思います。

しかし、私は広げられた選択肢の前で途方に暮れたまま20年以上を生きてきてしまいました。このどれかを選べば迷宮から出られるのかもしれない。でももしこの選択肢が間違いだったら? ほかの選択肢をとりに戻るなんてことができないなら? そう思うと、どの選択肢も手に取ることができませんでした。もし迷宮から出たとして、その先がユートピアである自信もなかったのです。

 

家族に守られた迷宮は非常に住み心地がいいものです。ぼんやりとしていても20年、なんの問題もなく生きてこれたくらいには。これより先にある未来が本当に今よりいいものかなんてわからないのに、そんな不確定なもののために努力ができるほど、私は強くありませんでした。

 

でも、いつまでもこの迷宮にはいられないのです。

年末年始に実家に帰ると、祖父母がおどろくほど小さく感じました。もうそろそろ米寿を迎える祖母は、だいぶ共通語を忘れてしまい方言で何度も何度も同じ話をしました。数年前から体のあちこちを患っている祖父は、もはや地べたに座る動作はできませんでした。

まだまだ両親は健康で元気ですが、いつまでもこの居心地の良い迷宮が存在しているわけではないのだということを実感するには十分なほど、祖父母は老いていました。

この迷宮から、いずれは出なくてはなりません。選択肢はいくらでも目の前にあります。きっと、自分から動けばもっともっとたくさんの選択肢が存在していることに気付けるのでしょう。しかし、この迷宮から出るために必要なのはまず第一に、外に出た世界でどうありたいのかという「ポジティブなユートピア」なのだと思うのです。

 

「ポジティブなユートピア」探しは難航しています。どうしても、そもそも生命はなぜ生きるのか、みたいなところから考えてしまってドツボにはまってしまいます。しいて言うならこういう面倒くさいことだけを延々と考えていられるようになりたいけど、なんだかあんまりポジティブな感じはしませんね。

 

めちゃくちゃ話はそれますが、そもそも生命ってなんで生きてるんでしょうね。そこに目的はあるんでしょうか。生殖のため? でもじゃあなんで子孫を残さなきゃいけないんですか? そこにあるのは強迫観念? うーんわからん。こんな感じでいつもドツボです。この話題は考えないほうがいい。

 

とりあえず、根本的な部分をゆっくりじっくりひたすらに考えてつきつめていくこと、は現代の若者に不足してるんじゃないでしょうか。ポジティブなユートピアを探したくても、時の流れが速すぎる現代、足を止めて考えている暇がありません。しっかりした到着目標もなしでは、いったいどんな未来が開けるんでしょうか。

 

人類、生き急ぎすぎだと思います。もっとゆっくりのんびり生きようぜ。

発達障害の診断をもらわないこと

 

もしかしたら発達障害の診断がもらえるかも知れないと、考えることがあります。

私は物心ついたときからとにかく片づけができなくて、一人暮らしの今はゴミ屋敷状態の部屋に住んでいます。計画的に課題をこなせなくて、期限内にレポートを出せずに土下座メールを送ったり、それを避けるために出さないよりはマシとゴミのような未完成品を出したり。人の話聞いてない。報連相ができない。家事ができない。洗濯機、日中に回すの忘れちゃうんです。回しても干すの忘れるし。ゴミ屋敷と計画的に動けないのが相まって、部屋でなくしたことがあるのは爪きり、メガネ、学生証、キャッシュカード、家の鍵etc. 

 

でも、診断を受けにいこうと相談したことがありません。何故って、怖いから。

障害があると診断されることが、ではなく、診断されないことが、です。

 

障害があると診断されたら、何かが変わるって訳でもないんですけど、言い訳ができるじゃないですか。脳みその働きがどうしようもない、だから工夫できるとこは工夫して乗り越えてます、って。

でも診断がもらえなかったら、それって結局ただただ私ができるのにやらないクズで、性格の問題だ、個性だってことじゃないですか。

 

実際、上記の問題、困ってはいるんです。別に好き好んで汚部屋に住んでる訳じゃないし、親に学費払ってもらって奨学金ももらって大学通ってるんだからキチンとしたいし、清潔な服着たいし風呂だって毎日入った方がいいに決まってます。ですが、それって社会生活を全部捨ててしまえばなんにも問題なくないですか?

部屋から一歩もでず一日中寝てれば私がどんなに不衛生でも問題ないし、将来のことなんて考えないならとっとと大学ドロップアウトして引きこもりますよ。

 

さすがにそこまではできませんが、私は適当にいきることにしてきました。

頑張って人並みになろうとするとしんどいので、自分で最低ラインを決めて適当に生きてます。楽です。超健康体で生きてます。友達いないけど。成績悪いけど。部屋は汚すぎて足の踏み場がないけれど。これを書いてる今日はもう3日ほどシャワーを浴びてなくて、洗濯機は3週間くらいかな、回してないし、自炊は半年やってません。そして授業を1コマサボりました。

 

ぼんやりと、明日死んでも悔いはないかな~という思いが常々あります。そこまで熱意を持ってやりたいと思うこと、無いんです。それを探す気も無いです。

たぶんこの人生観がアレ何だと思うんですけど、それはまたべつのエントリーで書くかな。

世界のモブと変化への恐怖

いわゆる”モブ”には二種類あるんじゃないかと最近思う。

 

一つには、「存在が描かれるモブ」。その作品世界において、存在していることが何らかの形で示されるようなモブ。例えば学園物で廊下で噂話をしているJK、とか。

 

もう一つは、「存在が描かれないモブ」。これは、例えば学園物の作品世界で、恐らく存在はしているはずなのだけれど描写されることは一切ない、地球の裏側の人。

 

創作作品でエンディングを描いてもらえるのは前者のモブまでがせいぜいじゃないでしょうか。

というのも、最近人生のルートについて考えたりしていまして。

 

私は今までの人生で大きな失敗や挫折をしたことがありません。家庭環境なども平均的な感じで、幸福な方なんだと思います。

大きな失敗がない、というのは、それだけ大きな決断の際に「失敗しない方」を選んできたんです。高校受験も大学受験も、確実にA判定がとれるレベルの中から選んで受験したようなものです。海外留学などの、田舎の一般学生には少々ハードルの高いことも、悩みはしましたが結局行くことはありませんでした。

将来の夢も、色々考えたことがあります。考古学者、小説家、翻訳家、ピアノ調律師、図書館司書、学芸員etc...

色々考えたけれど、今私は大学で、上のこととは一切関係のない勉強をだらだらとやっています。色々考るたびに、将来を不安に思って、私なんかになれるはずがないと諦めて、将来性がないと勝手に決めつけて、易きに流れて行ったのです。少しでも実学的なことが出来なきゃ、って思って、でも専門学校はいやだって言って(専門学校の選択肢が無かったことに関しては私の出身地の影響もあります)。

 

そうやって生きてきて、今、人生詰みだなって感じることが多くなりました。

多分この後、私はしょうもない卒論を書いて無難に大学を卒業して、無難にそこそこの就職をするのだと思います。多分、それが出来るだけ幸せな方だって言われちゃうと思います。

でもこの先にはハッピーエンドどころか、バッドエンドすらないんじゃないかと思えるんです。

 

どこかでルート選択を誤って、結末が作られていない没ルートに入ってしまったような感覚。

 

ここからエンディングが用意されている正規ルートに戻るためには、壁を無理やりぶち破ってしまう必要があるのだけど、そんなことが出来るくらいの行動力や決断力があれば、そもそもこのバグルートには入っていないんです。ぶち破ったその先はバッドエンドなんじゃないかと思うと、それはそれで怖くなってしまうんです。

 

私はずっと、この世界の主要登場人物になりたいと思っていて、でも思うだけで、何にも行動をしてこなかった。そしたら気づけば「存在を描写されることはないモブ」になっていた。元々そうだっただけかも知れない。

 

一度きりの人生、やりたいことは全部やらなきゃ!というタイプの人と、一度きりセーブポイントも無い人生、慎重に選んでトゥルーエンドを見なきゃ!というタイプの人、どちらが優れているかってありますか?よく前者は持ち上げられますが、後者がそんなにダメですか?

多分私は今後も後者の生き方しかできません。慎重に正解を選んだつもりで、後々に小さな選択ミスを積み重ねてきたことに気づく人生を送るんでしょう。

 

それでも自殺してしまおうと思ったことがないのも、やっぱり決断力がないからです。死んだその先が不透明なのが怖い。苦しまずに死ねる保証がないのも怖い。

変化することが怖いんです。大人になりたくなかったのに、気がついたら成人していました。お酒が飲めるのと年齢制限に引っかかることが無いのはいいかな。でも化粧は出来ないし、大人っぽい格好がわからなくて(というか年齢ごとに格好を変えなきゃいけない必然性に納得行かなくて)小学生みたいな"くそダサい"格好をしています。

 

こうやって全世界に向けた独り言を書いてしまうのは、世界に少しでも跡を残したい、存在していることが描写されない、モブの僅かな抵抗なのかも知れない。

二次創作と三次創作について

Twitterで少し話題になってたので、二次創作と三次創作についてちょっと考えてました。

前提として、私は一次創作で小説を書くのと、二次創作でも小説を書きます。どちらもインターネット上での公開が主で、オフ活動はしていません。こんな文章力なのでお察しですが、1つでも感想をいただけるとそれだけで当分幸せな気分になる人です。

 

感想と「感想として送り付ける三次創作小説」、何が違うの?というのもあるのですが、一番の違いは主語かな?とぼんやり思ったり。

感想って、「私はこう思いました」「私はこう感じました」「私はここに萌えました」なので、あくまで主語は作品を読んだ側なんですよね。でも、三次創作『小説』となってしまうと、主語は読んだ側じゃない気がします。

一枚絵だったり、考察的な感想だとまたいろいろ違うのでしょうが、『小説』という形になってしまっているのも問題かなぁと思ってしまいます。

 

三次創作を二次創作者に直接「感想として」送ったら怒ってしまった、という今回の問題。

「二次創作作品を原作者に送り付けるのはマナー違反」というのは二次創作界隈ではそこそこ市民権を得ている考え方だと思うのですが、今回の話の場合そもそも元ネタ自体が二次創作同人漫画ということで「そもそも一次を無視して勝手に捏造している二次創作の時点で大きな顔はできないのでは?」という意見をよく見かける気がします。

 

実際、二次創作ももちろん創作物の設定を勝手に改変したりしているのですから、大きな顔をできるものではないと思います。ですが、上で書いた通り、基本的には二次創作作品は原作者に送り付けられないと考えられます。

 

ではそもそも、二次(三次)創作作品を送り付けたりすることにより起こる問題には何があるのか。

もし原作者(二次創作者)が考えていた続きの展開と、送り付けられた作品の展開が似ていた場合。そのまま考えていた通りに作品を書けばよい、といわれるかもしれませんが、「私のアイディアは誰でも思いつく安易なものだったのか?」「この送ってきた人は、私の作品を読んだらネタを真似したと考えてしまったりしないだろうか?」「自分で書かれるなんて、私は必要とされていないのかもしれない」結構ネガティブなことは思いついてしまいます。考えすぎかもしれない。うじうじしすぎかもしれないです。でもそう考えてしまう人、私以外にもいるんじゃないかなと思います。

展開がまったく違った場合には、「これが求められているのだろうか」とか、そういうことも考えてしまいます。気にするなって言われたって、一度触れてしまった者を完全に脳内から消すのは難しいかもしれません。

 

ですが、「むしろうれしい」という意見も非常にたくさん見かけます。創作活動と読み手との交流のスタンスは人それぞれです、送り付ける前に一言、「書いてみたいのですが」「つい興奮して書いてしまいました」とだけお伝えしたら、多分送り付けてほしくない人は断りやすくなるし、送ってほしい人はぜひ読ませてください、とお願いしやすくなると思います。

 

ここまでは直接送られた場合の話ですが、「そもそも三次創作するのにも許可とらなきゃなの?」という話についても。(今回の案件は送り付けたことが一番の問題だったと思うので少し論点がずれてしまうのですが)

万一にも三次創作が何かしら、一次レベルの関係者に迷惑をかけるようなことしてしまった場合、二次創作者はどのような立場にならねばならないのでしょう? 二次創作はグレーゾーン、よく聞く言葉です。グレーゾーンだからこそ、自己責任で、慎ましやかに活動していきたいと思っている身としては、自分の手から離れた場所で三次創作をされてしまうことを考えると、ひやっとしてしまいます。

 

 

二次創作含めて、ファン活動には色々なスタンスがあると思います。ジャンル毎の傾向とか雰囲気とかも。その中でうまく活動していくためには、「自分がされて嫌なことはやらない」だけでは多分ダメで、もうちょっと相手に寄り添って考えていく必要があるのかな。

Linux版Azpainterのブラシ設定とか。

win版アズドのブラシ設定がうまく引き継げなかったりしたので、せっかく機能も増えてるのだし…とブラシ設定を色々いじってみました。自分用メモもかねて。

どうぞご自由にコピペして持って行ってください。

 

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えんぴつ

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クレヨン

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Gペン(っぽいもの)

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マーカー

azpainter-v2-brush;name=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC;type=0;radius=35.3;radius_min=0.3;radius_max=200.0;opacity=18;pix=0;sm_type=1;sm_str=1;min_size=0.0;min_opacity=0.0;interval=0.06;rand_size=100.0;rand_pos=0.00;angle=0;angle_rand=0;rough=0;hard=100;flags=4;water1=50.0;water2=90.0;water3=40.0;press_type=0;press_value=41;shape=square%2Epng;texture=%3F;

 

マーカーだけ、デフォルトではない ブラシ画像を使っています。

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縦長の長方形なら何でもいいと思います。

Linux版Azpainterをwindows10で動かそうとしたときのメモ

お絵かきソフトとしてはずっとwindows版AzPainter2を愛用してきたけど、たまたまLinux版の紹介を見てしまったときにそのあまりの進化ぶりについ使いたくなって、どうにかwindows上で動かそうと色々調べながらやったときのメモ的なまとめ。

 

まずはBash on Ubuntu on WindowsXmingを使う方法でやってみようとしました。

qiita.com

こちらを参考にしたりしてやってみると、動きました。

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特に遅延も感じずサクサク動きます。しかし、ペンタブの筆圧がききません。

ペンタブのドライバ設定をどうにかできればいいのですが、よくわからなくてできませんでした。もし情報があればほしい……。

 

結局、一番報告例が多い仮想マシンを使って動かす方法にしました。

使ったのはVirtualBox、OSはUbuntu

メモリは1800MB割り振りました。

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時間が前後してたりするのはスクショとったりとらなかったりで、一部記事書きながら撮りなおしているせいです。

 

VirtualBoxでUSBの設定のところからペンタブを認識させるのを忘れていたり、マウス統合を一度OFFにしなきゃいけなかったりと、若干の引っかかりはありましたが比較的簡単に導入できました。

Ubuntuだと若干もっさりとした挙動になっているのが気になって、デスクトップ環境をLubuntuにしてみるとだいぶ快適に動くようになりました。

 

Bash on Ubuntu on Windowsで筆圧感知を設定できなかったのが地味に悔しいです。もう少し情報集めてみようかな。

 

お絵かき環境はしばらくLinux版AzPainterメインで使ってみようかと思います。

ブログとTwitterと「全世界に向けての独り言」

遥か昔にやっていたブログは気が付けば更新しなくなり、長らくTwitterにこもる生活をしていました。

しかしやはりTwitterは流れゆくツール、140文字しか書けない場所で、色々考えたことだとかをある程度まとまった形で表出するには不向きなわけで。加えて、ここしばらくは諸事情あって鍵垢で運用しているため、なんだか閉塞感がありました。

 

Twitterはその流れゆくところだとか、140文字しか書けないところが良いところでもあるのですが、それとは別にブログなど持っておけば色々便利かなと思いまして、開設しました。

基本的には考えたことだとかをふんわりまとめたり、備忘録的に調べたことをまとめたりといった不定期更新の自分用ブログになるかと思います。

 

それでも全体公開なのは、「全世界に向けての独り言」が好きだからです。Twitterもかれこれ7年近くやっていて、続いているのもやっぱり「全世界に向けての独り言」だからです。

臆病者なので自分の意見を声高に主張したりは恥ずかしい、でも、一人でこもってため込んでしまうのもモヤモヤする。だから全世界に向けて小声でぼそぼそ言う場所がほしいんです。Twitterはそれを可能にしてくれる場所でした。流れていくTLのなかで私がぼそぼそ呟いても、多くの場合はフォロワーからも反応はありません、独り言ですから。でも時々、検索などで引っかかったのでしょう、まるで知らない人から反応がきたりするときがあって、そういうときには若干の恥ずかしさと同時に安心感や満足感があります。人に「話を聞いて」というのは怖いくせに、人に話を聞いてほしいんです。

 

鍵垢にしてしまってその欲求を満たせなくなったのもあって、この度ブログを開設しました。

こんな調子で「全世界に向けての独り言」をぼそぼそと書いていく場所になるかと思います。基本的には話を聞いてほしい欲求があるがためにインターネットブログなんてやってしまうので、コメントなどお気軽にどうぞ。