音楽と言語の似ているところ

私は長く吹奏楽などで音楽をやってきて、大学では言語学を(一応)専攻していました。そんな生活を振り返るなかで最近ふと考えるようになったのが、音楽と言語って似てるのかもなぁ、ということでした。

 

とくにそう思うようになったのは、大学でリコーダーをするうちに触れた、ルネサンスバロック時代の音楽を現代の楽器で演奏することを通してでした。

 

当時の楽器と今の学校教育で使うような楽器では、一見同じような形をしたリコーダーであっても音程や音色が違います。なので、当時の譜面を今の樹脂製リコーダーでそのまま演奏すると、その響きは同じにはならないのです。

また、バロック音楽の譜面には装飾が書かれておらず、奏者が即興的に装飾を加えて演奏するのが普通だったとか。その装飾の付け方の理論なども当時の人々のなかでは知識として共有されていたりしたのでしょうが、現代のリコーダーを吹く小学生は学校でそのような部分までは習いません。

 

これって、古い時代の日本語の文献を読むのと似ていませんか?

ことばも時代とともに変化してきていて、バロック時代と同じ頃、つまり江戸時代頃の文献を現代の日本語の知識だけで読むのは困難ですよね。間違いなく連綿と続いてきた「日本語」であるはずなのに、今の日本語を読む感覚で文字情報を読み上げても、意味は通じないのです。

 

バロック時代の室内楽の楽器としてメジャーだったとされるリコーダー。しかし、時代の変遷に伴い、現代では室内楽の花形としてよりも、教育楽器として一般に知られるようになりました。リコーダーはこのように、あまり変わらない形で長く演奏されていますが、時代とともに使われなくなり、姿を消していった楽器や改良の末大きく形を変え、別の楽器になったりしていった例は多くあるはずです。

 

言語もそうです。私たち日本語母語話者が古い時代の日本語を現代のそれと同じようには理解できないように、時代の流れで言語は大きく形を変えてきました。その中で使われなくなり、消滅していった言語も数え切れないほどあります。

 

ですが、私たちは古い日本語を、文法や古文単語を学ぶことによって読むことが出来ます。同じように、バロック時代の音楽を、当時の演奏環境や文化・理論を学ぶことで譜面から解釈することができます。

 

ほかにも似ている点はあります。言語には必ずしも文字が必要でないように、音楽にも必ずしも楽譜は必要ありません。ですがそれぞれ記録する方法があるために、こうやって後世に伝えられ、広く教育されていくわけです。

 

リコーダーサークルでは、さまざまなジャンルの音楽をリコーダーアレンジで演奏していました。古楽、ポップス、クラシック、近現代の音楽、アニソン・ゲーム音楽、etc.

リコーダー愛好者の内には、リコーダーでポップスなどを演奏することに疑問を呈するひともいます。元々リコーダーで演奏することを想定されていない曲をアレンジして演奏することは、作曲者の意図などを十分伝えきれないから、という意見は納得できます。でも、私は言語と音楽は似ているから、色々な曲を演奏できるということは素晴らしいことで、その対応できる範囲の広さも魅力の一つだと思うようになりました。

 

言うなれば、「翻訳」なのです。「ドレミの歌」が日本語で歌えるように。自分のわかる”ことば”としての楽器で、好きな歌を歌うのです。わかることばに直すことで、知らなかった作品に触れられるのです。

 

本の翻訳も、作者の原語での意図を完全には訳せません。訳書だけを読んで、原書を理解したことにはできないでしょう。音楽もきっと同じです。アレンジされた譜面だけでは、曲本来の理解には全くもって不十分でしょう。

でも、知らない世界を知る入り口にはなり得ます。実際、私は中学校の授業で習ったアルトリコーダーを使ってテレマンソナタなどを演奏してみることで、バロック音楽への興味を持つようになったのですから。そしてリコーダーを楽しいとはじめに思ったのは、自分の知っている曲を簡単にリコーダーアレンジされた楽譜をつかって演奏できた時なのです。

 

使われないと、ことばはやがて消えていきます。音楽もそう。誰にも演奏されない曲や楽器はいずれ忘れられていく。「その道具を使っていろんなことができる」ことは、その言語なり楽器なりといった道具が力強くありつづけるためには重要な要素なのではないでしょうか。