大学について

一日に二度更新するとは。それだけちょっと行き詰まりを感じているのか。

 

表題の通り、大学についてです。今ものすごく中退したい。

卒論の研究計画書を本当は年末に指導教官に見せないといけなかったのですが、逃避を続けてしまいいよいよ最後通告が届きました。まずいです、非常にまずい。今から土下座メールに添付して提出しなければなりませんが、嫌すぎてデータがまっさらです。このまま大学からフェードアウトしたい。

 

中退を考えたときに一番ハードルになるのが、「高卒になること」でした。私は人文学系で特に資格取得を目指していないので、どちらにしろ就職は大学での専門とは関係ないところに行くんだろうなと漠然と考えてますので、学士の資格なんていらないんじゃないの?と思うのですが、大卒だというだけでお給料が上がったり就ける職種が増えたりする日本。これを3年間は積み上げてきたのにあと一年、たった卒業論文数単位のせいでふいにするの、なんだか癪です。

 

そもそもなんで大卒が就職に影響なんてするんでしょうかね。法学部を卒業したので御社の法律関係の業務に携わりたい、わかります。経済学部・商学部を卒業したので御社の経営にかかわっていきたい、わかります。理工学部を卒業したので御社の研究開発部門に、芸術系出身なのでデザイナーに、国際関係学を学んだのでグローバル展開を、なるほど。では、人文学を学んだので御社で営業や総務を???

 

人文学系の学部卒でよくアピールに使われると聞くのが、批判的に・多角的に物事を見るだとか、論じ方だとか、徹底的に調べることだとか、そういった技法の部分です。実際、大学で3年間いろいろな授業を受けて適宜レポートを書いたりゼミでの発表をするなどを通して、それらの技能はある程度身についたなと感じることはあります。

ですが、それらは3年生までに取り切れる授業の分で身についてしまうのです。というか身についてないと卒論が書けない。なら、3年生まで大学で学んだ人と卒業論文書いて大卒資格手に入れた人、ほとんど技能的に違いはなくないですか?実践力の証明にはなるのかしら。

 

「大卒」という肩書、本当に必要なんでしょうか。上記の人文学系以外の学部での例だって、重要なのは知識そのものであって、「学士」の肩書じゃないですよね。

 

大学というものの在り方について、日本社会は考えなきゃいけないんじゃないでしょうか(逃避)

 

大学って何なんでしょう。教育機関? 研究機関? 研究成果の社会還元機関?

 

違和感を感じることの一つに、語学教育の専門家でもない先生が担当する語学の授業があります。英語など必修だったりしますが、高校時代の英語の授業のほうがはるかに訓練になったなと感じる授業をする先生もいました。そもそも大学の教授って、小中高の教員免許を持っている方もいらっしゃるでしょうが、教育の専門家ではないんですよね。後に続く同分野の研究者の指導、という面では専門家なのでしょうが、あくまで「指導」であって、「教育」とはまた違うのではないでしょうか。なので大学、研究者にならない学生の教育という面ではあまりよろしくないと感じているのです。英語の「指導」なら、全学必修で~とかじゃなしに最初から専門ごとに分けて専門の英語論文を読む訓練でもさせればよいのです。英会話なら専門の民間講師のほうが確かじゃないですか?

 

じゃあ研究機関?研究機関であるにしては授業に割いているリソースが大きすぎる先生が結構いらっしゃいます。その辺は教授個人の裁量なのかもしれませんが、授業に割いて結局何割が将来その分野の研究者になることを選びますか?中にはそもそも院進する気もなくとくに学びたいこともなく大学に来てしまう人もいます。私も割とその部類でした。なぜ来ちゃうのかって、「大卒」の旗印が就職に有利に働くからと、モラトリアムを継続したくなっちゃうからです。この辺は社会と大学が一丸となって「大卒」の価値を重視しないようにならないと変化はない部分だと思います。

 

それでも大学が研究者になりもしない学生でも受け入れてしまうのは、大学の運営資金の確保のためなんじゃないかと思っているのですが、実際のところどうなんでしょうか。じゃあ「大卒」の価値を減らしたら学生数が減ってしまってまずいってことになるのですが、代わりにどうすればよいのか。

 

大学が「研究成果の社会還元の場」になって、受講料をとるのがよいのではないのかなと思うのです、最近。公開講座や科目等履修生など、すでに一部では行われている活動ですよね。それをメインにすればいいんじゃないでしょうか。公開講座などの場合、対象者がだいぶ広がり、幅広い世代の「学生」が集まっている印象です。そちらを大学の民間からのメイン収入源に。ある程度のカリキュラムを提示しておいて、体系的に学ぶこともできるようにします。そして、そこから興味を持って研究者の道に進みたい人用に「学士取得プログラム」がオプションである、という形。「学士取得プログラム」に課金すれば教員からの研究活動指導が受けられる……というイメージです。

医者や教員といった専門性の高い人材を育成するには、もちろんそれ用のプログラムが設定されます。

 

「大卒」資格の価値が下がれば、実際は研究に興味があまりないのにやってきてしまうやる気の少ない学生は確実に減るでしょう。しかし、公開講座なら学びなおしたい社会人らが参加しやすく、意欲と興味の高い「学生」が集まるのではないでしょうか。

また、卒業論文や卒業研究はしないで学士を取らない「学生」でも、ある程度まとまったカリキュラムを受講したことを証明できれば知識はあるわけですから、3年でカリキュラムを修了し、その証明書をもって就職活動をする。「大卒」とかわらない?そうかもしれません。でも将来研究者になるわけでもない人の研究指導するということにリソースを割かなくてよくなりますし、「学生」も卒業論文を書きながら就職活動をするということがなくなり「知識や技能を学ぶこと」と「進路を決めること」にそれぞれ集中しやすくなると思います。

 

思うのは、大学を目指さなくなるなら大学で身に着けるべきとされる技能面は高校段階で学べるはずだということ。高校3年間、受験勉強を山ほどしました。その分の時間を調査・探索型学習にあてたり、授業方法を変えるなどのやり方で批判的に・多角的に物事を見るだとか、論じ方だとか、徹底的に調べることだとか、そういった技法の部分を身に着けることは十分に可能だと思うのです。

公開講座ですが、就職で学修歴をアピールする際に当然「どの大学で、どの先生に教わるのか」というのは問題になる…かと思いきやたぶんなりません。だって今も「どこの大学か」は見られてるでしょうが、「どの先生に、どんなことを」なんて見られてないでしょ。「同じ大学で英語の授業をうけました」と言って、ものすごく高度な英文を読む技法やネイティブ並みに話せるようになる訓練を受けた人と高校の授業のほうがマシなレベルの授業を受けた人を一体どうやって区別するのですか。実際に話させてみなきゃわかりません。今は受験競争がありますから、難関大学に入れる人は地頭がいいから優秀だろうというような認識があって、だからこそ難関大学はブランドになって、さらに受験競争が過熱して、な循環なんじゃないかなぁと感じています。だからそもそも受験という概念がなきゃどこの大学で学んだかって、就職の面では何も関係ないことなんじゃないですか。

 

公開講座も受講制限は必要でしょう。その際に「学士取得プログラム」等の学生は最優先で受け入れ、それ以外は抽選。「学士取得プログラム」は年間授業料制、プログラム以外の人は受講科目ごとにお金を払うパターンと学期ごとにお金を払うパターン、もしくは学士取得はしないけど3年間一つのカリキュラム体系で学ぶ人用の年間授業料制、などでパターン分けして、それぞれ受け入れ優先順を設定して、あふれる分は抽選…みたいな体制が理想かなぁ。

 

ようは何が言いたいのかって、私は3年間大学で学んでみて、「確かにこの分野に興味はあるけれども、自分で能動的に研究したいとは思えなかったので、卒業論文は書きたくない」という結論に至ってしまったのです。科目等履修生で十分だったんです、たぶん。

 

いまさら気づいてしまってどうしようもない感じで、私はおそらくうつ病だとかでも診断されない限り本当に大学を中退はできないんじゃないかなと思います。今ちょっとさすがにまずくて学生相談に駆け込んでみるつもりなので、相談次第なんですが、たぶんうつ病診断には至らないでしょう。いわれてみれば最近ごはんはあんまりおいしくないし逃避行動をとり続けてはいますが、おなかは空くし趣味は楽しいし、寝てていいなら半日寝てられます。たぶんうつ病ほどには至ってないストレスの程度だとおもいます。逃避と責任転嫁がうまいので…引きこもれば大概の問題は解決するな~とか思ってるので……。

 

とりあえず、大学の根本から考える逃避でした。45分くらいで4000字近く書いたみたいです。この勢いを研究計画書に向けろよな、というところなのですが、これは何も調べてない私の妄想書きなぐり・校正なしですがそもそも計画書は下調べからですもんね。しかも実は今回英語で書く必要があるんですよね。詰んだ。

適当な文体でこうやってキーボードカタカタやってるのが一番落ち着く…。