音楽と言語の似ているところ

私は長く吹奏楽などで音楽をやってきて、大学では言語学を(一応)専攻していました。そんな生活を振り返るなかで最近ふと考えるようになったのが、音楽と言語って似てるのかもなぁ、ということでした。

 

とくにそう思うようになったのは、大学でリコーダーをするうちに触れた、ルネサンスバロック時代の音楽を現代の楽器で演奏することを通してでした。

 

当時の楽器と今の学校教育で使うような楽器では、一見同じような形をしたリコーダーであっても音程や音色が違います。なので、当時の譜面を今の樹脂製リコーダーでそのまま演奏すると、その響きは同じにはならないのです。

また、バロック音楽の譜面には装飾が書かれておらず、奏者が即興的に装飾を加えて演奏するのが普通だったとか。その装飾の付け方の理論なども当時の人々のなかでは知識として共有されていたりしたのでしょうが、現代のリコーダーを吹く小学生は学校でそのような部分までは習いません。

 

これって、古い時代の日本語の文献を読むのと似ていませんか?

ことばも時代とともに変化してきていて、バロック時代と同じ頃、つまり江戸時代頃の文献を現代の日本語の知識だけで読むのは困難ですよね。間違いなく連綿と続いてきた「日本語」であるはずなのに、今の日本語を読む感覚で文字情報を読み上げても、意味は通じないのです。

 

バロック時代の室内楽の楽器としてメジャーだったとされるリコーダー。しかし、時代の変遷に伴い、現代では室内楽の花形としてよりも、教育楽器として一般に知られるようになりました。リコーダーはこのように、あまり変わらない形で長く演奏されていますが、時代とともに使われなくなり、姿を消していった楽器や改良の末大きく形を変え、別の楽器になったりしていった例は多くあるはずです。

 

言語もそうです。私たち日本語母語話者が古い時代の日本語を現代のそれと同じようには理解できないように、時代の流れで言語は大きく形を変えてきました。その中で使われなくなり、消滅していった言語も数え切れないほどあります。

 

ですが、私たちは古い日本語を、文法や古文単語を学ぶことによって読むことが出来ます。同じように、バロック時代の音楽を、当時の演奏環境や文化・理論を学ぶことで譜面から解釈することができます。

 

ほかにも似ている点はあります。言語には必ずしも文字が必要でないように、音楽にも必ずしも楽譜は必要ありません。ですがそれぞれ記録する方法があるために、こうやって後世に伝えられ、広く教育されていくわけです。

 

リコーダーサークルでは、さまざまなジャンルの音楽をリコーダーアレンジで演奏していました。古楽、ポップス、クラシック、近現代の音楽、アニソン・ゲーム音楽、etc.

リコーダー愛好者の内には、リコーダーでポップスなどを演奏することに疑問を呈するひともいます。元々リコーダーで演奏することを想定されていない曲をアレンジして演奏することは、作曲者の意図などを十分伝えきれないから、という意見は納得できます。でも、私は言語と音楽は似ているから、色々な曲を演奏できるということは素晴らしいことで、その対応できる範囲の広さも魅力の一つだと思うようになりました。

 

言うなれば、「翻訳」なのです。「ドレミの歌」が日本語で歌えるように。自分のわかる”ことば”としての楽器で、好きな歌を歌うのです。わかることばに直すことで、知らなかった作品に触れられるのです。

 

本の翻訳も、作者の原語での意図を完全には訳せません。訳書だけを読んで、原書を理解したことにはできないでしょう。音楽もきっと同じです。アレンジされた譜面だけでは、曲本来の理解には全くもって不十分でしょう。

でも、知らない世界を知る入り口にはなり得ます。実際、私は中学校の授業で習ったアルトリコーダーを使ってテレマンソナタなどを演奏してみることで、バロック音楽への興味を持つようになったのですから。そしてリコーダーを楽しいとはじめに思ったのは、自分の知っている曲を簡単にリコーダーアレンジされた楽譜をつかって演奏できた時なのです。

 

使われないと、ことばはやがて消えていきます。音楽もそう。誰にも演奏されない曲や楽器はいずれ忘れられていく。「その道具を使っていろんなことができる」ことは、その言語なり楽器なりといった道具が力強くありつづけるためには重要な要素なのではないでしょうか。

 

 

「解釈違い」という言葉について

某女性向けジャンルのコミカライズを発端にTwitterを賑わせた「公式が解釈違い」案件。

私は件のジャンルはかなりライトに、ドラマパート・バトル曲・+数曲を履修していただけで、コミカライズは話題になってから試し読み部分だけ読みました。女性向けジャンルの大手はアプリゲームとアニメという印象の昨今でCDコンテンツなのが面白いなぁと思って先行きを楽しみにしていたので、今後外部媒体追わなきゃいけなくなるのはなんだかちょっと残念というか、結局か~と思ってしまった節はちょっとだけある。今後どういう展開をしていくんだろう。

 

某コンテンツについては本当にライト層だったので詳しく語ることはしませんが。ただ、私がここ数年とくに楽しんでいるジャンルも結構「解釈違い!」とか「設定改変!」ってよく炎上するのでなんだか余所のことだと思えなくって色々トレンドのツイートを見たりしてしまいました。その中で考えてみたりしたことをつらつらと。

 

私の今のメインは、基本となる1年を描きながら、時々触れられる過去の因縁が大きく関わってきたり、一度描かれたイベントの裏側を別の視点からもう一度描いたりする群像劇です(これだけで同ジャンル者はある程度特定できてしまうと思うのですが…)。各ストーリーのライター名が公表されており、「メインライター」と「サブライター」という肩書きが明記されています。このメインとサブの間でキャラクターの描き方が違うこと(Aというキャラがサブライターが書くとかわいらしい面を強調し、メインライターが書くと少年っぽい面が強調されたり。これは意識的にやっているようなことがライターのコメント等から見受けられる)が多々あるほか、監修がうまくいっていないのかお互いのストーリーをうまく反映させられていないことがあったり。あまりにもテキスト量が膨大になっているのですり合わせが大変なんだろうなと思うのですが、このライター間の相違によって、結構、作中でのキャラの印象が変わります。

私もこのコンテンツに触れ始めた当初はなかなか飲み込めず、とくにメインライターのノリが好きで始めたのもあって、サブライターについて「解釈違い」という感情がありました。そして、サブライターも公式であるのだから「公式と解釈違いを起こしてしまっている」と。ですが、最近はもう「そういうコンテンツなんだな……」と思って割り切ることにしました。サブライターはサブライター、メインライターはメインライター。そして私はメインライターの方が肌に合うので、肌に合うモノを楽しもう。サブライターのストーリーは悪いわけではないので、楽しめるときは楽しもう。でも、もし合わないときがあっても、なるほどな、とだけ思って割り切ろう。そう考えるとかなり楽になりました。

 

これが私にとっての「解釈違い」であり、その解決方法でした。「Aというキャラが、メインライターの情報からするとかっこいい系のキャラ。そして私はそういうところが好きなのに、サブライターのストーリーではかわいい系のあつかいをされてしまって、ギャップ萌えとは違って違和感を覚える」という、Aというキャラに対するサブライターとの「解釈違い」があったのです。

 

そもそも解釈とは、広辞苑によると「文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、それを説明すること」らしい。Aについての公式側の設定資料は、すべてが受け手側に公開されているわけではないので、設定資料を"解釈"することはできない。開示されている設定は、あくまで制作側が作成している設定の一部に過ぎないと思っている。では私は何に対する解釈についてサブライターと「解釈違い」を感じていたのかというと、メインライターのストーリーから読み取れる情報の意味についての理解だ。もしかしたら私の知らない、制作側だけが共有している設定に照らせば正しいのかも知れないけど、メインライターのストーリーでAが言ったある台詞の意味について、サブライターとの解釈が違うな、と感じることが多かったのだ、と気がついた。

 

そして私のジャンルでは、特に過去の因縁に関する描写や初めて絡むキャラ同士の会話に関して「このキャラはこんなこと言わない、こんなキャラじゃ無かった」という意味で「解釈違い」だとか、「設定改変」だとか騒がれることがあります。私はこれが「解釈違い」と言われることに違和感を感じることがありました。なぜなら、それは今まで「描かれていなかった」ことだからです。描かれてこなかった以上、すべての可能性が存在しうるのです。その周辺の描かれている部分などから推察して、ありえそうな可能性を考えることはできますし、そういうことを考えるのは楽しいです。でもそれらはすべて推察に過ぎないのです。制作側が実際に描写を提示してくれない限りは確定され得ません。「BというキャラはCやDにいつも優しい」という描写から、CとDの共通属性などを考えて「Bはこういうキャラに優しいんだな」と考えることは「解釈」、でもそれを、「Bは誰にでも優しい」と過度の一般化をしてしまうと、「BはEには厳しく当たる」という描写が提示されたときに、思ってたのと違う!となっちゃうのかなぁ。

 

Twitterで散々言われてたことだけど、「解釈違い」という言葉、便利に使ってしまうけど、様々な事象を含んでいると思います。もっと細かく、「どういうところが気にくわなかったのか」「どうなってほしかったのか」「違和感を覚えたのはどこか」「そもそも自分の”解釈”は何に対するものだったのか」とか、色々考えてみる必要があるんじゃないかな。

 

本当にまとまりもない深夜テンションで書いてしまったけど、このテーマというか、便利な言葉に関しての定義のすりあわせやそこに内包されているものについて考えるのはとても楽しい。また今度、しっかり考えてみたいかも知れない。

腐女子のCP決定について一考

私はいわゆる腐女子だ。男の子同士のでかい感情のぶつかり合いが好きで、その過程で恋愛になったり恋愛ではなくても肉体関係が生まれたり、ハッピーエンドでもバッドエンドでも、とにかくでかい感情をぶつけあうところを妄想するのが好きだ。

 

それよりも根底に、「原作の関係性が好き」というのがある。なので私は腐女子的な妄想をするとき、あくまで原作の関係性を下敷きにした上で、「その2人が恋愛や肉体関係に発展するif」というフィルターをのせて、いわゆる”推しCP””自CP”かどうかを判断します。

なので、あくまで「勝手にそういうifフィルターをのせている」ことは常々忘れないようにしていて、真面目に作品を考察したり評価したり誰かにお勧めする時には極力フィルターを排除して語ります。

恋愛感情や肉体関係については原作中で明確に言及されるまではどんな妄想の可能性もあり得て、同時にどんな妄想も妄想でしかない、というスタンス。これは男同士でも女同士でも男と女でも、そういう風に捉えています。

 

とある女性向けアプリゲームに関して、「私にはストーリー上ではAB寄りに書かれているように見えるんですけど、どうしてあなたはBA(もしくはAC)なのですか?」というような匿名メッセージがTwitterを賑わせているのを見かけて、"推しCP"とかの決定法っていろいろあるんだなーて思った次第。

ちなみに私は件のメッセージだとBAのCPが好きで、上記のようなCP判断法をしているので、「私もストーリーを読んだ上でこれはBAって思ったんですが……」という感想を抱いたりした。

 

例えば(これは上記件のメッセージでのCPとは切り離して考えています)AとBが上司と部下で、Aは余裕綽々オトナの魅力、Bはいつでも必死に食らいついていこうとしている系で、2人はお互い助け合って時にぶつかってプロジェクトを動かしたりします。というストーリーがあったとして。これでABかBAか?というのに関しては、それこそ”性癖による”部分なんだと思います。どっちの方がより萌えるか。私的にはBAの方が萌えます。

 

この例だと属性をかなり簡略化して書いているので”解釈違い”が起きようがないのですが(この場合のCPの違いは”解釈違い”ではなく”性癖の相違”だと思います)、これがストーリーなどの流れでキャラが描かれると、読者①は「Aは圧倒的余裕綽々オトナの魅力、Bはちょっとひねたとこのある必死に食らいつく系」だと解釈するかもしれませんが読者②は「Aは余裕綽々のように見えて実はコンプレックスを抱えて取り繕ってる、Bは必死に食らいつく系めちゃくちゃまっすぐ素直な光属性」とか解釈するかもしれません。微妙なモノかも知れませんがキャラに関して解釈違いが生まれてる。もし読者②の解釈だと、私はABかもしれません。なぜなら「精神的に余裕がない攻めをよしよしする受け」となるCPが”性癖”なので。

 

ストーリーからキャラを読み取るとき、読者ひとりひとり違う読み方をしてしまうのはあたりまえで、仕方のないことだと思います。もし「読者に勘違いされた」と怒る作者がいたとしたら、それはその作者の筆力が足りないのだと思うことにしている。だってされたい読まれ方があるならそのように誘導するのがテクニックでしょ。だから、解釈違いなひとに「間違ってます!」って言いに行くのってちょっとお門違いかなぁ、って。「どうしてそういう風に読んだの?」は気の置けない仲だとすごい楽しい話題だと思います。ただそれを匿名メッセージで送ったりすると喧嘩売ってんのか煽りなのか?って思うのもわかりみが深すぎるのであんまり気軽に送んない方がいいと思う……。

そして解釈は一致しているのにCPが一致しない場合、それはもはや性癖の違いで、きっと今までの来歴や感情の色々が違うことから来ているので、多分どうしようもない部分じゃないかな。それぞれの場所で生きよう。でも解釈は合うからCP関係ない話はめっちゃしたいね。フィルターはおいといてお友達になりたい。

 

「解釈違い」と「性癖の違い」って別だよね、どっちの違いにしても「どうしてそっちなの?」って、面白いけどお互いどれだけ信頼関係があるかも影響してくる話題だよね…。という感じの一考でした。

"推し"感情と"好き"概念

"推し"ってなんだろう。最近の自分の中での議題の一つ。

 

好きなアニメやゲームの話をするとき、「推しは誰?」って聞かれがちだ。そういうとき、私は咄嗟に答えられないことが多い。相手の中での"推し"の定義がわからないからだ。

 

私にとって、推しキャラと好きなキャラはイコールではない。"推し"は"好き"の下位分類の一つに過ぎず、推しが「一番”好き”なキャラ」ではない場合が結構あるのだ。

 

そもそも私の中では「好き」にたくさん分類がある。応援したくなるだとか、格好良さに憧れるとか、かわいさを愛でたくなるとか、どうしてこいつはこうなんだろう…って考察したくなるとか。私の場合、「一番”好き”」になる確率が高いのは多分この一番最後の、「考察したくなる」だ。そのキャラについて延々と考える時間を割いているとき、あぁ、私はこのキャラが好きなんだなぁってものすごく思う。

で、"推し"は一番目の「応援したくなる」感情が強いという印象。例えば人気投票とかがあったときに票を投じたり、アプリゲームのイベントを頑張るかどうかの判断基準になったりするのが"推し"だ。

 

近頃、一概に「好き」というのがもっと細かく言うとどういう感情なんだろう?って考えてみるのがちょっと楽しい。Twitterでこの話題をなんとはなしにつぶやいた時、複数のフォロワーさんがそれぞれの"推し"感情についてつぶやいてくれたが、どれもそれぞれに違っていて面白かった。

 

ほかにもたくさんのみんなの"推し"感情を知りたいところ。

 

病気になりたい知恵袋の話

某知恵袋を見ていて、「病気になりたい」という思いを抱えている、おそらく中高生の書き込みを見つけた。あぁ、なんだかわかるなぁ、って思いました。

 

私も「病気になりたい」と思うときがある。多分その感情のうちには悲劇のヒロインのようになりたいというのもちょっぴり入っているのだけど、それ以上に、そこに求めているのは現状のどうしようもなさを一旦休むための客観的要因だったり、する。

 

私は昨年度末、海外に行かなければならなくなった。申し込んだのは自分なのだが、ほとんど勢いだけで行動してしまって、時がたてばたつほど行きたくなくなってめちゃくちゃしんどくなった。このブログの2月頃の記事はここで追い詰められて書いたモノだ。

海外行を決行するのがどうしても正解とは思えなくて、気持ちが追いつかなくて、出発当日まで荷詰めに着手できなくて、夜中に泣きながら、それでも荷詰めをした。どうしても行きたくなかった。でも今更行かないなんて言うと、周囲の人に多大な迷惑をかけるのをわかっていて、とてもじゃないけど言い出せなかった。止まりたいのに止まれない。このまま進んじゃダメだってわかってるのに、もう自分ひとりじゃ止まれなかった。本当に気分はブレーキの壊れたジェットコースターだった。

 

そういうとき脳裏によぎったのは「病気になりたい」だった。それも例えばインフルエンザみたいな、確実に客観的に飛行機に乗っちゃいけないやつ。自分じゃもう止まれなかったから、客観的に誰かに止められたかった。でもついうっかりインフルエンザ予防接種なんてやっちゃってて、周囲でめちゃくちゃはやってたのに罹らなかった。その事実で余計にしんどくなって、さすがにこれはちょっと尋常な精神状態ではない気がして某相談ダイヤルに夜通しかけ続けた。一度もつながることはなかった。

 

結局私は海外にそのまま行った。準備はボロボロで、予約していた高速バスにはチケットを紛失して乗れなかったし、出発当日になってキャリーバッグが壊れているのに気づいて空港で買い換えるアクロバットをした。海外のなれない土地ではやっぱり失敗をしたけれど、出会う人がことごとくいい人ぞろいで、余計に自分の不甲斐なさで泣きたくなった。私は今その海外行をもとに卒業論文を書いているが、進捗がよろしくない。こんなものを見せるのは申し訳なさ過ぎる。でもどうしても頑張れなくてしんどい、今もまた病気になりたい。卒業論文を書かなくていい客観的に納得される理由がほしい。「それはしょうがないね」って、言われたいんだと思う。

 

つまるところ責任を負いたくないのかも知れない。何かの決断に対し、自分の意思を根拠にするのが怖いのかも知れない。私は常に外的要因に責任転嫁できる言い訳を探している。

 

「病気になりたい」は多分そんなに珍しい思考じゃないよ。どうしようもなくしんどくなる世の中だよね。生まれたくて生まれたのでもないのにね。私は未だこの「病気になりたい」をポジティブに変えていく道筋を見つけられていないからきっと求めているだろう回答を与えてあげられないけど、「自分がなぜ病気になりたいのか」を考えてみると何かしら見えてくるかもな、とは思います。

…と、知恵袋を読んで思ったのでした。

順調すぎる事への不安

人生が順調すぎて不安になることがある。

 

こんなこというと、順調でいいじゃん、って、言われるかもしれない。

私は平和な中流家庭に生まれて、すごく健康で、少なくとも高校までの勉強は苦手ではなくて、今はそこそこの大学に、とくに苦学生というわけでもない環境で通っている。

今まで高校受験と大学受験を経験してきた。どちらも一発で、受験当時第一志望ということにしていたところに受かった。大学に入ってからも、なんだかんだ引きこもりの危機を感じながらも留年はしないで来ている……というか、うちの学科はよっぽどのことがなきゃ留年はしない。

 

多分すごく恵まれているんだと思う。私の周囲には、家庭に複雑な事情を抱えているひとも、健康に問題を抱えて苦しんでいるひとも何人かいる。そういうことを考えると、私の時々すごく引きこもりたくなるけど結局引きこもらない性質は、ただの甘えなのかなと思う。

 

でも今、私は今まで大きくコケないで来てしまったことがものすごく怖くて、不安になってしまうことが増えた。

現在、私は就職活動と卒業論文を書いている。正直どちらも進捗は芳しくなく、もしかしたら生まれて初めて、人生がストレートでいかないかもしれない、という予感を覚え始めた。

 

それ自体もちろん不安なんだけど、それ以上に、ここでコケることで安心しそうになっている自分がいる。

今まで怖いくらい順調にきてしまった。私はよく、真面目だねとか、気が利くねとか、言われる。でも本当はそうじゃないと自分では思っていて、私はどうしようもなく怠け者で、性格が悪くて、社会生活にあまり向いていない性質だという自己認識だ。

それでも真面目で気が利くヤツに見えて、人生が順調に来てしまっているのは、どうやら私のハッタリとその場しのぎがうますぎるのではないか、というのがここ最近の気づき。

 

外面の私は嘘だらけなのに、なぜかみんな嘘を見抜いてくれないの。本当は真面目でも何でも無いのに、不真面目にやって怒られる方が総合的に面倒だなって思うから真面目に見える方を選んでいるだけなのに、みんなそれを見て「真面目だね」っていうの。

 

勉強だってそう。ほとんど試験の付け焼き刃。たまたま一夜漬けがうまいので、試験ではそこそこの点が取れるんですけど、本当はなんにもわかってないの。良い点数を取っていた方が、補習とか食らわないですんで楽だから、とりあえず点数だけはよく見せとこう、っていう魂胆。

 

そんなこんなの嘘やハッタリや付け焼き刃で、なぜか今までそうそう怒られずに、なんとなくここまで順調に流されてきてしまった。

 

正直、いつ化けの皮が剥がれるんだろうって怖いんです。

 

自分から化けの皮を剥がすのはもっと怖くて出来ない。剥がしてしまった方が楽なんじゃないかって思うけど、怖くて無理です。

 

だからそろそろ、誰かにここいらで化けの皮を剥いでほしいと思っているのかなって、思います。

 

ここで失敗しとかないと、もっとリカバリが聞かないことになってしまいそう。

ああもう今すぐ就職活動も卒業論文執筆も投げ捨ててしまいたい。

 

大学について

一日に二度更新するとは。それだけちょっと行き詰まりを感じているのか。

 

表題の通り、大学についてです。今ものすごく中退したい。

卒論の研究計画書を本当は年末に指導教官に見せないといけなかったのですが、逃避を続けてしまいいよいよ最後通告が届きました。まずいです、非常にまずい。今から土下座メールに添付して提出しなければなりませんが、嫌すぎてデータがまっさらです。このまま大学からフェードアウトしたい。

 

中退を考えたときに一番ハードルになるのが、「高卒になること」でした。私は人文学系で特に資格取得を目指していないので、どちらにしろ就職は大学での専門とは関係ないところに行くんだろうなと漠然と考えてますので、学士の資格なんていらないんじゃないの?と思うのですが、大卒だというだけでお給料が上がったり就ける職種が増えたりする日本。これを3年間は積み上げてきたのにあと一年、たった卒業論文数単位のせいでふいにするの、なんだか癪です。

 

そもそもなんで大卒が就職に影響なんてするんでしょうかね。法学部を卒業したので御社の法律関係の業務に携わりたい、わかります。経済学部・商学部を卒業したので御社の経営にかかわっていきたい、わかります。理工学部を卒業したので御社の研究開発部門に、芸術系出身なのでデザイナーに、国際関係学を学んだのでグローバル展開を、なるほど。では、人文学を学んだので御社で営業や総務を???

 

人文学系の学部卒でよくアピールに使われると聞くのが、批判的に・多角的に物事を見るだとか、論じ方だとか、徹底的に調べることだとか、そういった技法の部分です。実際、大学で3年間いろいろな授業を受けて適宜レポートを書いたりゼミでの発表をするなどを通して、それらの技能はある程度身についたなと感じることはあります。

ですが、それらは3年生までに取り切れる授業の分で身についてしまうのです。というか身についてないと卒論が書けない。なら、3年生まで大学で学んだ人と卒業論文書いて大卒資格手に入れた人、ほとんど技能的に違いはなくないですか?実践力の証明にはなるのかしら。

 

「大卒」という肩書、本当に必要なんでしょうか。上記の人文学系以外の学部での例だって、重要なのは知識そのものであって、「学士」の肩書じゃないですよね。

 

大学というものの在り方について、日本社会は考えなきゃいけないんじゃないでしょうか(逃避)

 

大学って何なんでしょう。教育機関? 研究機関? 研究成果の社会還元機関?

 

違和感を感じることの一つに、語学教育の専門家でもない先生が担当する語学の授業があります。英語など必修だったりしますが、高校時代の英語の授業のほうがはるかに訓練になったなと感じる授業をする先生もいました。そもそも大学の教授って、小中高の教員免許を持っている方もいらっしゃるでしょうが、教育の専門家ではないんですよね。後に続く同分野の研究者の指導、という面では専門家なのでしょうが、あくまで「指導」であって、「教育」とはまた違うのではないでしょうか。なので大学、研究者にならない学生の教育という面ではあまりよろしくないと感じているのです。英語の「指導」なら、全学必修で~とかじゃなしに最初から専門ごとに分けて専門の英語論文を読む訓練でもさせればよいのです。英会話なら専門の民間講師のほうが確かじゃないですか?

 

じゃあ研究機関?研究機関であるにしては授業に割いているリソースが大きすぎる先生が結構いらっしゃいます。その辺は教授個人の裁量なのかもしれませんが、授業に割いて結局何割が将来その分野の研究者になることを選びますか?中にはそもそも院進する気もなくとくに学びたいこともなく大学に来てしまう人もいます。私も割とその部類でした。なぜ来ちゃうのかって、「大卒」の旗印が就職に有利に働くからと、モラトリアムを継続したくなっちゃうからです。この辺は社会と大学が一丸となって「大卒」の価値を重視しないようにならないと変化はない部分だと思います。

 

それでも大学が研究者になりもしない学生でも受け入れてしまうのは、大学の運営資金の確保のためなんじゃないかと思っているのですが、実際のところどうなんでしょうか。じゃあ「大卒」の価値を減らしたら学生数が減ってしまってまずいってことになるのですが、代わりにどうすればよいのか。

 

大学が「研究成果の社会還元の場」になって、受講料をとるのがよいのではないのかなと思うのです、最近。公開講座や科目等履修生など、すでに一部では行われている活動ですよね。それをメインにすればいいんじゃないでしょうか。公開講座などの場合、対象者がだいぶ広がり、幅広い世代の「学生」が集まっている印象です。そちらを大学の民間からのメイン収入源に。ある程度のカリキュラムを提示しておいて、体系的に学ぶこともできるようにします。そして、そこから興味を持って研究者の道に進みたい人用に「学士取得プログラム」がオプションである、という形。「学士取得プログラム」に課金すれば教員からの研究活動指導が受けられる……というイメージです。

医者や教員といった専門性の高い人材を育成するには、もちろんそれ用のプログラムが設定されます。

 

「大卒」資格の価値が下がれば、実際は研究に興味があまりないのにやってきてしまうやる気の少ない学生は確実に減るでしょう。しかし、公開講座なら学びなおしたい社会人らが参加しやすく、意欲と興味の高い「学生」が集まるのではないでしょうか。

また、卒業論文や卒業研究はしないで学士を取らない「学生」でも、ある程度まとまったカリキュラムを受講したことを証明できれば知識はあるわけですから、3年でカリキュラムを修了し、その証明書をもって就職活動をする。「大卒」とかわらない?そうかもしれません。でも将来研究者になるわけでもない人の研究指導するということにリソースを割かなくてよくなりますし、「学生」も卒業論文を書きながら就職活動をするということがなくなり「知識や技能を学ぶこと」と「進路を決めること」にそれぞれ集中しやすくなると思います。

 

思うのは、大学を目指さなくなるなら大学で身に着けるべきとされる技能面は高校段階で学べるはずだということ。高校3年間、受験勉強を山ほどしました。その分の時間を調査・探索型学習にあてたり、授業方法を変えるなどのやり方で批判的に・多角的に物事を見るだとか、論じ方だとか、徹底的に調べることだとか、そういった技法の部分を身に着けることは十分に可能だと思うのです。

公開講座ですが、就職で学修歴をアピールする際に当然「どの大学で、どの先生に教わるのか」というのは問題になる…かと思いきやたぶんなりません。だって今も「どこの大学か」は見られてるでしょうが、「どの先生に、どんなことを」なんて見られてないでしょ。「同じ大学で英語の授業をうけました」と言って、ものすごく高度な英文を読む技法やネイティブ並みに話せるようになる訓練を受けた人と高校の授業のほうがマシなレベルの授業を受けた人を一体どうやって区別するのですか。実際に話させてみなきゃわかりません。今は受験競争がありますから、難関大学に入れる人は地頭がいいから優秀だろうというような認識があって、だからこそ難関大学はブランドになって、さらに受験競争が過熱して、な循環なんじゃないかなぁと感じています。だからそもそも受験という概念がなきゃどこの大学で学んだかって、就職の面では何も関係ないことなんじゃないですか。

 

公開講座も受講制限は必要でしょう。その際に「学士取得プログラム」等の学生は最優先で受け入れ、それ以外は抽選。「学士取得プログラム」は年間授業料制、プログラム以外の人は受講科目ごとにお金を払うパターンと学期ごとにお金を払うパターン、もしくは学士取得はしないけど3年間一つのカリキュラム体系で学ぶ人用の年間授業料制、などでパターン分けして、それぞれ受け入れ優先順を設定して、あふれる分は抽選…みたいな体制が理想かなぁ。

 

ようは何が言いたいのかって、私は3年間大学で学んでみて、「確かにこの分野に興味はあるけれども、自分で能動的に研究したいとは思えなかったので、卒業論文は書きたくない」という結論に至ってしまったのです。科目等履修生で十分だったんです、たぶん。

 

いまさら気づいてしまってどうしようもない感じで、私はおそらくうつ病だとかでも診断されない限り本当に大学を中退はできないんじゃないかなと思います。今ちょっとさすがにまずくて学生相談に駆け込んでみるつもりなので、相談次第なんですが、たぶんうつ病診断には至らないでしょう。いわれてみれば最近ごはんはあんまりおいしくないし逃避行動をとり続けてはいますが、おなかは空くし趣味は楽しいし、寝てていいなら半日寝てられます。たぶんうつ病ほどには至ってないストレスの程度だとおもいます。逃避と責任転嫁がうまいので…引きこもれば大概の問題は解決するな~とか思ってるので……。

 

とりあえず、大学の根本から考える逃避でした。45分くらいで4000字近く書いたみたいです。この勢いを研究計画書に向けろよな、というところなのですが、これは何も調べてない私の妄想書きなぐり・校正なしですがそもそも計画書は下調べからですもんね。しかも実は今回英語で書く必要があるんですよね。詰んだ。

適当な文体でこうやってキーボードカタカタやってるのが一番落ち着く…。